止まらない限り道は続く

生きるために大切な「力」は大きく分けて2つある。「能力」と「根性」だ。

 

虚無から解放されるために「能力」は必要はない。「根性」だけあれば十分だ。

 

例えば、私が難しい話をAさんからされたとしよう。当然頭の悪い私は、その話を理解することが出来ない。「能力」を持たない故の結果である。そういったものは仕方ないので、自分を責めるのは程々で良い。

 

さて、では「根性」とは何なのか?

 

私がAさんから難しい話をされても、当然理解は出来ない。しかしその難しい話をされた後、Aさんをデートに誘うことは出来るだろう(実際にデートできるかどうかは問題ではない)。「すいません、今から私と一緒にデートに行きませんか?」と言うだけだ。特別な能力はいらない。「根性」だけあれば十分だろう。

 

根性...きつそうだな。自分には無理だと思ったかもしれない。

 

根性といっても、そんなに自分を追い込む必要はないと考えている。当たり前のことを当たり前に出来る。これだけで十分だ。

 

なんだ、それだけのことかと思った人もいるだろう。おそらく、それが正常な反応だと思われる。しかし私は、その当たり前すらできなかったことが、今まで何度もあったのだ。

 

私はギリ健だろうから、「充実」を手に入れることの出来ない自分を「能力」のせいにしてきた。しかし、虚無を薙ぎ払い「充実」を手に入れるために必要なものは「根性」だけで十分だ。ギリ健だろうが、それは言い訳にはならない。

 

私は悲観していない。「能力」なんか無くても、「根性」があれば生きていけると言っているんだ。「能力」のない私にとっては素晴らしいことだ。

 

確かに「能力」は決して無視できる要素ではないのも事実だ(いきなり何言ってやがる)。でも、それを必要以上に言い訳にしてきたんじゃないか?そして「根性」を必要以上に疎かにしてきたんじゃないか?

 

能力が0~100、根性が0~100だとしよう。私はこの2つの合計値が110あれば問題なく生きていけると思っている。能力の高い人間は、能力が80くらいだ。根性が30でも問題なく生きていける。では能力の低い人間は20だとしよう。普通に生きていくためには根性は90必要だ。

 

環境を考慮しなければ、上記の考えは大体は的を得ているはずだ。

 

そんな、90も根性必要なのか...とは考えない。なぜなら普通に生きていく必要などないと考えているからだ(ここでの普通とはかなり基準が高い)。自分なりに生きる喜びを見出し生きることが出来るなら、普通じゃなくても、それは幸せだと思う。

 

止まらない限り道は続くということだ。

 

だからよ...止まるんじゃねぇぞ。

自分を変えるとは

自分を変えることは出来なかった...。なぜ、変われなかったのか?答えは簡単。『変われなかった』からだ。

 

行動の結果として『変われなかった』。。。

 

それだけである。

 

 

<本当に変われなかったのか?>

 

自分を変えることが出来なかったと嘆いているが、基準を低くすれば、変わっていると認めることが出来る(というか、生きている以上、人は勝手に変わる)。

 

ただ納得のいく基準を満たしていないとき、人は『変わりたい』という願望を抱くのだろう。私の場合は「変わらなければならない」という危機感すらある。

 

まあ何年も前から、そう思いながらも、結局そんなに変われなかったのだが。。。

 

微々たる部分では変わることが出来ただろうが、まだ満足できるレベルではない。

 

 

<満足できるレベルに到達することは可能なのか?>

 

これは、不可能なのではないかと思う。満足してもそれは一瞬だけ...。また違う自分になりたい等と願うのではないかと思う。仮定の話なので何とも言えないが...。

 

人は生きている以上、負の感情も正の感情も受け入れていかなければならない。これは人が生きている以上、逃れる事の出来ない『さだめ』であろう。

 

だから、どこかで不満を抱きながら、生きていくことになるだろう。

 

じゃあ、私が現状に満足していないことは愚かなことなのか?

 

私はそうは思わない。

 

客観的に見て、そう判断したからだ。

 

 

<人生が永遠にあると思うな>

 

私はどうにも、今のままの人生が永遠に続くかのように感じている。しかし、それは大きな間違いだ。確かに永遠のように感じられるだろうが、いずれ終わりは来るのだ。

 

「いずれ」なんて抽象的な表現を使うべきではないだろう。例えば、5年後...人生はどうなっているだろうか?

 

人生は有限だ。それどころか、どこかで命を落としてしまう可能性だってある。

 

 

<生きていることが当たり前だと思うな>

 

お前はなぜ生きているのだ?しかも、自分の意志で行動できる。当たり前じゃない。凄いことじゃないか?

 

健全な状態で生きていられることが当たり前だという傲慢が、自分を甘やかす要因になるのだ。

 

私は「無」とか「死」に対して、日常生活で極力意識しないようにしている。あまり意識したくないことだからだ。

 

それは別に構わんだろうが、度が過ぎて、生きていることが当たり前・人生が無限であるといったふざけた幻想に行きつく。

 

人生は無限じゃないし、人は死ぬ。当たり前すぎることだが、私はあまり意識できていないのだ。せめて健全に生きていられることへの感謝くらいは忘れるな。

 

 

<迷いはあって当然、それを理由に止まってはいては...>

 

自分の行いに対する迷いというのは、ほぼ確実と言っていいほど存在するものだ。

 

それを言い訳に、止まってしまったことが今まで何度もあった。

 

止まるなとは言わないが、動かない限り、変わるということもあり得ない話となる。

 

常に動く必要はない、時には止まってもいいから、動く。そして結果を出す。

 

 

<壁は必ず現れる>

 

壁にぶち当たり、歩みを止めてしまうこともあるだろう。ほぼ確実に壁はやってくる。

 

それを壊すのが1番良いのかもしれないが、壊しきれず、ぶつかることもある。

 

そこで大事なのは『いかに立ち直るか』だ。

 

壁に当たったらそこで『オワタ』ではないのだ。

 

振り返ると、壁にぶち当たり、必要以上に長く、歩みを止めてしまったことが多かったように思う。

 

私の場合、大したことのない壁にぶつかって、その壁に長く苦しめられたように思う。

 

忘れるな、壁は必ず現れる。

 

壁なんてない?

 

それは無意識のうちに壁を越えているということだ。

 

凄いじゃねぇか!

 

 

<最後に>

 

別に主体的にならなくても道は続く。生きている限り道は続く。

 

けれど私は、その道を主体的に歩むことが出来れば良いと思う。

 

別に100点満点でなくても良い。

 

自分を褒めてやれる要素が少しでもあれば、それは0点ではない。(もっとも、それを言い訳にして必要以上に甘えると痛い目を見るかもしれん。程々というものがあるのだ。)

 

だからよ...止まるんじゃねぇぞ。

 

止まらないとはどういうことか

止まらない限り道は続く。止まっているかそうでないかというのは、自己判断で決まるものである。私は止まってしまった。

 

止まっても別に構わないのだ。動き続けることが理想かもしれないけど、それは難しいから。止まってもすぐにまた動き出せばいいのだ。

 

確かに動き続けたところで待っているのは虚無かもしれない(何回似たような言葉を言ったか自分でも分からんが、結構言ってると思う)。

 

虚無というのも自分が規定するものだ。つまりは幻想である。人生もまた幻想である。ただその幻想の充実度というのは、周囲との相対評価で判断するのが一般的な人間の在り方だと思う。

 

日々の生活は変わり続ける。変化があまり得意ではない私は、このことに対していささか不満を抱いていたりしたものだが、プラスに捉えると、いつでも人生は良い方向に変化し得ると捉えることも出来る。

 

しかし、虚無よりも恐ろしいものは絶望であると私は口をすっぱくして言っている。確かに虚無そのものもなかなかの絶望である。私は体験している。あの恐ろしさを。虚無の恐ろしさを。(あくまで自分の人生の中ではあるが)。

 

そのレベルに行かない虚無は虚無というレベルではなく、ただの虚しいという感情に過ぎないのかもしれない。それは問題視するほどではないような気がする。私が普通に充実した人生を送っていたなら、どんな人間になっていたかは想像できない。できるわけがない。

 

止まらない...それは、目的のためであれば変化することを厭わない、変化を求め続ける姿勢とも言えるのかもしれない。俺の中での止まらないというのは、ただ生きるだけ。それだけで十分立派であり、それを繰り返すというもの。そして俺は安定を好む。しかし、安定の壁を壊す、壊し続ける必要性というのがあるのかもしれない。

 

安定の先にあるもの

最近は非常に息苦しい。安定を手に入れたいものだ。嫌な思いなどしたくない。そう思うばかりだ。その先にあるのが虚無だとかいう懸念もあるが、それを吹き飛ばすのが本物だ。そうでなければ本物ではない。

 

<あなたは何を見ているんだ>

あなたはその心で何を見ているんだ?今、何を思っている?結局のところ、それらは全て無に帰る。最終的には。それに、振り返ると下らないことだったりもする。結局、無を誤魔化すためのくだらんものに過ぎないのかもしれない。

 

その下らないものが自身の感情とやらを慰めてくれるならそれに価値はあると感じるが、そうでないなら、それは本当に無駄なのだろう。無駄なことなんてこの世にないという反論は、ここではとりあえず置いておいてほしい。

 

自分が大切にしたいことを大切にしよう。それがないというのは本当の答えか?別に誰かに報告するわけでもない。自分の心の中でくらいは正直な解答を出してやってみないか、自分のために。

 

<あなたの生きる目的は?>

大袈裟なタイトルだ。生きる目的なんて無くても人は生きていける。別にそれを規定しなければいけないわけでもないのだが、どうにも苦痛になってきた。なんでもいいのだ。毎日ごはんを食べるとか、毎日人と話すでも、毎日飲酒をするでも、毎日致しをするでも。何かしらの目的というのが人には必要であるように思う。

 

毎日というのに、こだわっているのは、一日は一日で完結されたものであり、その限られた期間を大事にできなければ何も出来ないと判断したからだ。そんなわけで、私は刹那主義者だ。正しい定義とは異なるかもしれないが、まあ別にいいだろう。止まらない限り道は続くという、世界的に有名な哲学者の名言がある。私はそれに感銘を受けたから、それに基づくように生きることを願っているだけである。

 

まあ、その目的が虚無に感じられることもあるかもしれないが、それはそれで仕方なかろう。人間の感情などコントロールできない。各々の人によって感じ方も違う。そんな中で人間は共生して生きてるんだから、すごいもんだと思う。

 

止まらないことは楽ではないかもしれない。動き続けても、止まっていても、人生はなるようにしかならない。止まってしまって、失敗するかもしれないし、動き続けたことで失敗するかもしれないし、価値基準を自分自身に限定した場合でさえも、絶対的に正しい解答、行動などは存在しなかったり、選べなかったり、分からなかったりする。考えるだけ無駄なことだ。

 

ただ目先のことで不快なことがあるなら、それは自分にとっては不快なんだろう。そこは軌道修正の出番であろう。答えなんてあるわけがない。最高の幸せ=安定とするなら、その先にあるものはやはり、虚無だ。まあ、人生というもの自体が虚無であるし、この世の万物が虚無であるようにも感じるし、これは当然すぎることだな。ただそんな虚無をせいぜい嗜めれば私はそれで十分かなと思う今日このごろであった。

 

 

 

 

どんな時でも真剣であれ、責任を持て

今日は金曜日ということで、私の精神状態はかなり落ち着いている。正直、かなり油断しているような状態だ。そんな自分にカツを入れるために、この記事を書こうと思った。

 

タイトルの通りだ。「どんな時でも真剣であれ、責任を持て」。今週はフル落単の危機が迫っていたのだが、そこそこ回避できた。そんなわけで、安心している(俺の思い違いかもしれないし、本当は回避できていないかもしれない)。

 

まあ俺の中では、今現在は調子がいい地点にまで持ってこれたというわけだ。別に今回に限った話ではない。こういったチャンスは今まで何度も経験してきたんだ。ただその度に、そのチャンスを無下にしたりもしてしまった。

 

理由は何か。

 

慢心。平和ボケ。油断。緊張感の欠如。現実を認識することから逃げていた...etc。

 

どんな時だろうが、真剣でなければ駄目だ。責任を持たなければ駄目だ。ただこれの対象は他人に対してというよりかは自分に対してという意味合いが強い。

 

自分の生活に対して、「真剣」になり「責任」を持てと言ってるのだ。真剣になり責任を持って出した答えが、勉強をサボることであったり、仕事を辞めることであったり、休むことであったり、バイトや部活などのコミュニティーを辞めることであったりするなら構わない。

 

真剣になり責任を持って出した答えなら、その結果不遇な結末を招いたとしても受け入れることはそんなに難しくないだろう。しかしそうじゃないとしたら...どうだろう?

 

今、こうしている時間だってそうだ。他にやることがあるのではないか?

 

自分が今やっている行動に対して責任を持っているか?真剣になっているか?

 

どんな時でもおごり高ぶることは禁物だ。そのおごりは、心のスキを作り、いつかの自分を痛い目に合わせることになるのだ(経験談)。

 

話は変わるが...私は、いい年こいて学生で社会人になったことが一度もない。バイトをしたくらいだ。そんな俺が言うのも滑稽な話なのだが、子供と大人(社会人)の違いというのは責任があるかないかだと思っている。

 

もちろん、子供にだって責任がある。それは確かだが、大人のそれとは大きく異なるのだ。中学校の生徒がバカなことを言っても許されるが、教師がバカなことを授業中に言ってたら許されないだろう。そういうことだ。

 

学生が大学をサボることは許されても(?)、社会人が会社をサボることは許されないだろう。

 

何度も言うように私がいうのは滑稽だが、いい年こいて責任を持つことへの自覚がないのはどうかと思う。常に責任意識を持つ、これは当たり前のことだ。

 

そんなことを考えずに遊んだりしていいのは、子供だけだ。お前は子供なのか?大人子供になってしまってもいいのか?

 

予想外の事態があることもある。それくらい経験で分かるはずだ。そういった事態は自分を崩しかねないが、そんな事態があったとしても、それを受け入れて、その時その時、日々の生活に真剣な心持ちで挑み、常に責任が付きまとうことを自覚し、慢心することなく生きていく。それが求められている当たり前だ。

 

私はいい年こいて社会人童貞なのは勿論として、友達などもほとんどいないから、言っていることが、かなり馬鹿げているように見えてしまうかもしれない。

 

社会不適合者じゃなきゃ、無意識に実行できていることかもしれない。まあそれが当たり前だとしても、今いったようなことを実行できている人間というのは称賛に値する。

 

当たり前のことが出来るだけでも良い。

 

私は別に自分に厳しくしたいと思っているわけではない。むしろその逆で自分に優しくしてやろうと思っているのだ。ただ、一時の自分の甘さが、一時の快楽が、後の自分を苦しめることになる。そういったケースを私は懲りずに何度も経験してきた。

 

だからこそ、そんなケースを避けるために、嫌な思いをしないためにも必要なことなんだ。真面目に生きるということは。自分を律するということは。

 

あまりスッキリしないがコレで終わることにする。結局行動で示すしかないのだ。止まるんじゃねぇぞ。

虚無

最近は虚無感が凄まじい。何をしようとしても、どうせ待ってるのが虚無だからと感じて、何もできなくなってしまう。これは今に始まったことじゃない。昔からずっとあったことだ。

 

先日「たとえ待っているのが虚無だったとしても、それは止まる理由にはならない」みたいなとてもカッコいい発言をしたと思うが、全く実践できていない。虚無に翻弄されて、止まっている。

 

理性では、虚無を気にすることなく止まらずに進むしかないと言い聞かせているのだが、どうやら俺の感情が嫌がっているらしい。

 

どうすれば良いのだろう。いや、どうするか?そんな具体的な案があるのだとしたらこうはなっていないのだろう。単純な話だ。社会に適合できていないから、そして今後も社会に適合できないだろうから、もう生きるのが嫌なんだ。

 

これは詰みだろう。チェックメイトだ。しかし諦めても死ぬことはない。時間は続くようだ。他人のことなど分からないが、大方ほとんどの社会不適合者たちは、このような境地に至り挫折してきたのではないかと私は勝手に思っている。

 

息苦しい。私にできることは何なのか。この虚無を怖がらずに見に行くしかないのか。

 

話を少し変えるが虚無しか見えなくなった人間が虚無から逃れるためには、新しい世界を開拓していくしかないという風に私は思っている。私の場合だったら大学をやめてしまうとかだ。そうじゃなくても新しいバイトをしてみるだとか、私では考えられないことだが、新たなコミュニティーに所属するとかだ。

 

俺は変化を怖がっているのだ。だから、そんな風に虚無から逃れるための世界の開拓ということは行っていない。ただ日々を、虚無しか見い出せていない日常を繰り返しているだけだ。

 

答えは2つしかない。1つは虚無から逃げるために新しい世界を開拓することだ。通常はこの選択を取るのが効果的であるだろう。というか、虚無どうこうに限らず生きている限り、新しい世界を開拓する姿勢というのは必要かもしれない。

 

この方法は生活に変化を求めていく事になる。リスクは伴うし、体力・精神力だって必要だ。だから安易に出来ることではないだろうが、効果は期待できるし、新たな知見は得られるだろう。しかし私はこの方法は避け続けていた。。。。。

 

2つ目は現状での生活を受け入れることだ。虚無しか見えていない現状を受け入れるのだ。淡々と日常を消費していく。後ろめたくない日々を送り続けるのだ、そうして安定を手に入れる。個人的にはそう思っている。私の方針はこの2つ目に偏っていた。しかし、私は虚無を受け入れるのがもう限界なのだろうか。それが行動に現れている。

 

何をしようと虚無から逃れられるとは思えない。だが強いていうなら孤独から解消されれば、緩和されるのではないかという仮定はある。孤独の定義は、ここでは比較的1人であるといった程度の意味で使っている。

 

孤独、俺は半ば障害者みたいなものだから、誰かと共生して生きていくことなど不可能だと思っていたし、小学生の時には誰かと一緒に生きることなど諦めていた。ただ完全に諦めていたわけではない。子供ながらに、人と関われないことはあまり良くないことだと理解していた。。。。。それでも孤独を貫いてしまった。

 

半ば障害者どころか、つい最近まで自分はガチの障害者だと思っていた。2つしか精神科を受診していないが、その過程で俺は知的障害と認定されるレベルではないのだろうと悟った。せいぜい軽い発達障害程度だろう。だから障害うんぬんは諦めている。

 

普通の人と「自分(半ば障害者)」という形でどうしても区別してしまうが、普通の人に近づくことが求められている。無理に普通に近づこうとする必要はないが、多少の無理は必要だろう。

 

自分が半ば障害者であることを理由に、普通の人と違うことを自然と正当化してきた。ガチ障害者として判断されることはないと悟ってからその傾向は幾分かマシになったようだが、それでも強く根付いていた。

 

自分は障害者だから普通にはなれないと。そして普通になれないことに対しての焦りもそんなになかった。

 

お先は真っ暗だ。この先に待っているのは絶望かもしれない。はたまた、別に絶望ではないかもしれない。ただ今感じているのは絶望に近いものだ。虚無よりも絶望だ。まあ絶望が強くて虚無という感情が弱く出ているだけで絶望が消えれば今度は虚無が強く出てしまいそうだが。

 

前回の2つの記事は推敲をしたり、言葉を選んだりとかなり苦戦した。いい記事を書こうと本気を出したつもりだ。今回は心の鬱憤をそのまま吐き出したつもりだ。あまり推敲はしていない。

 

まあ推敲しようが、そうじゃなかろうが、心で感じていることに変化はないから、あまり変わらないかもしれないが。

 

私は虚無にどう向き合えばいいのか?その答えが出なくても、虚無に心が支配されてしまっても、世界は何も変わらずに動き続ける。私はただのちっぽけな1人の人間に過ぎない。気軽に生きていきたいものだ。

 

 

日々の選択に対して思うこと

人生は選択の連続であり、日々の生活も選択の連続である。

 

今こうして私がブログを書いているのも、選択をした結果だ。

 

①寝る ②ブログを書く ③外に出る ④ネットサーフィン...などなどの選択肢から今は②を選んだわけだ。

 

これにより私は、(a)自分の考えを整理することが出来る、(b)文章を作成するトレーニングの機会を得ることが出来る、(c)承認欲求を満たすチャンスを得ることが出来る、などのメリットを受ける。

 

 

<選択をすれば、それに応じたメリット・デメリットを受ける>

 

とりあえず、私の選択肢について振り返ってみる。

 

①「寝る」の選択を取っていれば睡眠時間が確保でき、身体・精神的な疲れを癒すことが出来るし、

 

③「外に出る」の選択肢を取っていれば静かな夜を堪能し、精神的な疲れを癒すことが出来るし、

 

④「ネットサーフィン」の選択肢を取っていれば、自分にとって有益な情報に巡り会える可能性を高めることが出来る。

 

逆にデメリットとしては、①の選択肢「寝る」は自由な夜の時間に何もしなかったことによる機会損失が発生するし、

 

その他の選択肢は(①「寝る」と比較すると)十分な睡眠時間が確保できず、身体・精神的な疲れを癒すことが出来ない。

 

このようにメリット・デメリットが存在するため、自分にとっての最善の選択を決めるというのは困難であるし、最善なんてものは存在しないかもしれない。

 

だから人は迷う。

 

また、最善の選択を求め続けることは、人間として如何なものかと思い、不合理に思える選択を敢えてしてしまうこともしばしばある。

 

最善の選択を求め続けることは、人間らしさを失うような気がして怖いのだ。

 

これでは、更に迷ってしまう。

 

 

<私には、選択に対する明確な解答を述べることは出来ない>

 

選択をすれば、それに応じた結果が発生する。それだけのことである。

 

そんな当たり前の現象に対して、アレコレ言ったところで何も始まりはしない。

 

別に不合理に思える選択を取り続けたところで、人生が必ず終わるとは限らない...どころか普通に楽しめるかもしれないし、

 

逆に自分を律して必死に「こうあるべき」という選択を取り続けても、それが必ず報われるとは限らない。逆につまらない人生だったなと後悔するかもしれない。

 

だから私は選択に対する明確な解答を述べることはできない。

 

ただ、人間らしさの保持だとか、自身の人生だとか、人間としてあるべき姿だとか、...etc。そういったあらゆる要素をすべて引っ括めて、自分が良いなと思った選択を続けていければ、それが良いかなと思う(抽象的な解答)。

 

その過程で迷うことはあるかもしれないが、仕方ないといった感じだ。