「止まるんじゃねぇぞ...!」でおなじみのオルガ・イツカ。
ネットでネタにされていたみたいで、最初は私も面白がっていた。というか今でも面白いと思う。しかしコレはただのネタでは終わらない。
「止まるんじゃねぇぞ...!」という言葉は生きる上での素晴らしい教訓である。私にとっては、信条と言ったところだ。
<なぜ私が「止まるんじゃねぇぞ...!」を信条とするに至ったか>
私は無気力で、暇さえあれば布団で横になってスマホを弄ったり、そのまま寝たりするといった自堕落な人間であった。(まるで今はそうじゃないみたいな言い方だが、そんなことはない。ただ昔に比べると少しはマシになったと思う)
まあそんな生活を続けてきたわけだが、その結果人生が崩壊した。ただ、別に自堕落だけで人生が崩壊したわけではない。頭が弱いだとか他の要因もあったのだと思う。
つまり、怠け者と無能の2つが掛け合わさった生活を続けた結果、人生が崩壊したのだ。
人生が崩壊しても、私は怠け者と無能の2つを掛け合わせた生活を送り続けた。
更に人生は崩壊していく。
怠け者になってしまう自分を改善しなければならないと思いながらも、それをやめることは出来なかった。
そんな生活を続けていく中で、オルガ・イツカに出会った。そう、「止まるんじゃねぇぞ...!」だ。
私の解釈では、「止まらない」=「現状でのベストを尽くす」である。これなら無能であることは言い訳にはならない。なぜならベストを尽くすというのは、自分の現状の実力を最大限に行使して結果を出すことに過ぎない。無能でも無能なりの結果が出せればそれはベストを尽くしたことになる。
つまり無能でも止まらないことは可能なのである。無能でも輝くことが出来る。だから私は「止まらない」ということを信条にした。自分にでも出来ると思ったからだ。
<ただハードルを上げただけ>
先ほどまで、散々カッコいいことを言ったつもりだ。何がベストを尽くすだ。必要最小限のことすら出来て無いのにベストを尽くすなんて何をいってるんだ?
その通りである。
私が言ってることは、単に「止まらない」だけである。
例えば毎日0分しか勉強してなかったのを毎日10分勉強するようにする。これだけで勉強に関しては止まっていないことになる。
今まで存在しなかったハードルを自分に課したことになる。そのハードルの高さは例えメチャクチャに低かったとしても存在しないよりかは遥かにマシであると言えるだろう。
さて、人生について考えてみる。
生きることだけしか達成していない状態を0であるとしよう。
ただ生きるだけ。この目標を進化させるのだ。そしてその進化した目標を達成する。それさえ出来れば、人生は0ではなくなる。進捗があったと言える。
毎日「止まるんじゃねぇぞ...!」を実践しなければ、人生は0になってしまう。なぜなら止まっていることは、ただ生きているだけなのと同義だからだ。
私にとっての「止まるんじゃねぇぞ...!」とは生きるだけというハードルを上げただけに過ぎない。
<止まらなかった先が例え虚無だったとしても...>
止まらないということは、生きる上で必要最小限であると見なしたことを着実にやっていくことに過ぎない。つまりは「当たり前」なのだ。
当たり前のことをしているだけなのだから、見返りがなくても仕方ない。たとえ止まらなかった先に待っているのが虚無だったとしても、それはそれで仕方がない。
しかし自分のできる努力を少しでも実行した結果で虚無にたどり着く場合と、何もせずに虚無にたどり着く場合では同じ虚無という言葉を使用していても、その「虚無」は全く異なるものだろう。前者の方が清々しいものであると私は信じている。
私は、止まらない生活を続けたところで待っているのは「虚無」なのではないかと思い、たびたび止まってしまうことが、これまで何度もあった。しかし止まらないことは当たり前のことなのだ。
その先が虚無であるなら、虚無にならないように試行錯誤をするなり、黙って受け入れるなりすればいいだけの話である。
何度もいうように止まらないことは「当たり前」のことである。その先に待っているのが虚無のようにしか思えないというのは止まる理由にはならない。
「怠けた結果、虚無になってしまったんだ...。もしも、もう少し頑張っていたら...」
そんな後悔はしたくない。
だから止まらない。
<最後に>
自分の言いたいことを文章にするというのは、難しいと思った。
私の言いたいことは、「止まるんじゃねぇぞ...!」だけなんだが、それについて詳しく言及しようとすると、なんだか難しい。
止まるんじゃねぇぞ。